スポーツ関係者がよく使い、とても気に障る言葉、「結果を出す」。
「ようやく結果が出た」というと、やっとヒットを打てたとか、やっと勝てたとか、とかく望みどおりの結果を出せたことを指す。悪い結果だって結果だし、そもそも結果は意思とは無関係にどんどん生み出されるものであって、結果が出ないということはありえないのだが、こういう使い方をされる。 ( 全ての結果をそのまま結果と記録する態度は、自然、人文科学者には大切な態度だ )
「考える」と「期待する」の区別が曖昧になっている人も多い。そういう人は、誰かが緊急事態に備えようとすると、「緊急事態を期待しているのか! 」と批判したりする。確かに戦争に備えて軍隊を作れば、いつの間にか軍隊を使ってみたくなるという心理も分からないでもない。しかし緊急事態について「考える」のと「期待する」ことは全く別のことで、緊急事態を考えなければ緊急事態が発生しなくなるわけではない。いさ緊急事態が発生してから対応しても間に合わないことは多いのだから、ただ「考え」対策を練っておくことは重要である。
カール・セーガンに限らず、多くの天文学者を悩ませてきたのは、「星占いは当たると思いますか? 」「宇宙人はいると思いますか? 」という、天文学者から同意を引き出そうとするオカルト主義者の存在だった。彼らは天文学者が宇宙人がいるのかどうか調査しようとすると、「天文学者も宇宙人がいると信じている」と解釈する。調査を始めた時点では結果は分からないはずなのに、宇宙人について「考える」ことが、宇宙人はいると「期待する」にすりかえられて仕舞う。
欧米諸国には対宇宙人用の法律が用意されている国が多い。共通して基本は「宇宙人に出会ったら、先制攻撃してはならない」というものだ。宇宙の彼方からやってきた宇宙人ならば、地球までやってくる技術力を持っていること、宇宙人の技術力が地球のそれを遥かに上回るだろうことは想像に難くない。そんな宇宙人と不必要に敵対することは、国、地球にとって損であることは間違いないという考えから作られている。
この法律を作ることと、宇宙人がいると期待することは無関係だ。あくまでも緊急事態に備えようという現実的思考から生まれたものにすぎない。オカルト主義者はこの話をきくと皆、「欧米の政治家は宇宙人を信じている」「欧米の政治家はSF的想像力に長けている」という反応しか示さない。あくまでも現実的合理的な思考のもとに、宇宙人のいるいないに関わらず考え出された結論だとは捉えてくれない。
起こって欲しくないことは考えないという日本の役人にも困るし、対策を立てていると期待しているにすりかえて仕舞うオカルト主義者にも困る。少なくとも、カール・セーガンほどではないにしろ、僕もオカルト主義者は嫌いだ。
( 僕の見る限り、カール・セーガンにもオカルト主義者の要素が強くみられる。僕の知る限り最も現実的合理的な思考のできる科学者はマーヴィン・ハリスである )
カール・セーガンの「人はなぜエセ科学に騙されるのか」を読んだ。民衆に懐疑主義 ( 鵜呑みにせず確かめてみようという態度 ) を普及させようとし、オカルト主義と戦う彼の主張は面白かった。
特に面白かったところは、『オカルト主義者は民衆を不安にさせ煽り判断力をなくさせ、自分の主張を黙って信じろとつめよる』と言いつつ、自分も同じ煽り手法を使っているところだ。彼は米国の読者に理科離れの危険性を訴えようとするばかり不安感を煽っていた。米国の子供の理科の成績が、日本の子供に負けている、理科を好きだという子供の比率も低い、と彼は煽るが、日本の読者から見たら変な話である。この煽りは日本でも同じように行われている。さて、果たして日本と米国、どちらの子供がより理科に弱いのだろうか? そもそも理科の成績は他国と競争しなければならないようなものなのか? 彼はここで読者に懐疑主義を働かせようとしていたのではないかと思うと、なかなかうまいと思う。
他にも、SFはオカルトだとか、麻薬が有害だというのは実は誤りだとか、やや極端な発言が見られる。宗教は自分たちの教義こそ唯一絶対に正しいと決めているから危険だと解きつつ、科学の教義 ( 科学教は法則の存在と数学を信じることから始まる ) は正しいと主張するのも変な話だ。しかし、これらも、読者に「えっ!? 」と思わせて自分で調べさせようとしているのではないかと思う。
果たしてSFは科学教育に役立つのか、確かに気になるところではある。
彼は、SFの危険性は、一見すると科学的に見えるが、実際はオカルトが科学の仮面を被っただけというところにあるという。彼はスター・トレックなど比較的真面目な ( ギャグ漫画ではない ) 作品を例に批判しているが、娯楽性の強いライトSFにも充分理科への興味を引き出す効果はあると思う。僕は宇宙戦艦ヤマトでニュートリノに興味を持ち、新世紀エヴァンゲリオンでディラックの海に興味を持った人間なので、ライトSFでも一人の理学学士を生むくらいのことはできると思っている。
確かにライトSFからオカルトに走る可能性もあるのだが、もしそれ故ライトSFを批判するなら、この世の全てのフィクションが批判されて仕舞うことになる。残念ながらある程度は読者の理解力に期待せねばならないが、ライトSFを否定することは極端すぎるだろう。
なお彼がSFではない科学映像としてオムニマックスを挙げているのは、とても共感できる。オムニマックスは世界中全ての子供に見せる価値があると僕も思う。それは科学的思考法を身につけさせる効果や自然への畏怖を体験させる効果 ( これは題材にも因るが、今のところ失格した作品に出会ったことはない ) があるだけでなく、立体感覚や情景想像力を養う効果もあると思われるからだ。最近のポリゴンに慣れた子供には、ぜひとも真の立体映像を味わってもらいたいと思う。
誰の言葉か忘れたが、こんな言葉がある。
「人生は、何事か成して上。人を育てて極上」
最近、プロジェクトXばかりだが、今日もプロジェクトXの話。BS2での再放送で「男たち不屈のドラマ 瀬戸大橋」〜世紀の難工事に挑む〜を見た。杉田秀夫氏の言葉をもう一度聞きたくて、ずっと待っていた。
いつもいつも、僕はプロジェクトXの構成を「お涙頂戴」と批判しているが、今回だけは「お涙頂戴」でもいいと思うような話だ。
杉田氏は瀬戸大橋建造を指揮した技術者だが、仕事に一生懸命になる中で、妻を癌で亡くして仕舞う。その彼が、瀬戸大橋完成後、仕事をやめ、残された娘たちを一生懸命に育てる道を選ぶ。入院した妻を前にして、それでも仕事を貫いたことを後悔してのことかも知れない。傍目には充分看護したように見えるが、本人には満足できなかったのだろう。
そして彼は後に講演で言う。「橋を作ったという経験が人より多くあったからといって、それで人生の価値が決まるというものではない。本当に人生の価値を決めるものは何かという問題は、橋をつくるより遥かに難しい問題」だと。
杉田氏は瀬戸大橋を作りつつ、何かに気づかされたのだろう。「人生は、何事か成して上。人を育てて極上」という言葉の、「人を育てる」とは何も子育てには限らないだろうが、彼も娘たちを育てることになにかを見出したのだろう。社会に貢献するだけが人生ではなく、もっと何か得るべきものがあることをみつけたのだろう。彼の人生を想像すれば、涙なくして聞いてはいられなかった!
ところがNHKは、彼の講演の言葉に対して、「意外にもこう言った」と解説した! まさか、NHKは瀬戸大橋を作り上げた男に、「きみたちも瀬戸大橋を作るような大仕事を成せ」と言わせたかったのか!? 「わたしは瀬戸大橋を作ったことを誇りにしている」と言わせたかったのか!? NHKには、仕事人間しか認められないのか!? 経済的に役立たないことに価値は無いというのか!?
懐かしい銀塩写真用フィルムを買うため、ビックカメラ 渋谷東口店にいってきた。そこでフィルムを買うついでに、以前から試してみたかったDigital Photo Nowというサービスを利用してみることにした。
このサービス、簡単にいうと店内に設置された専用プリンターを借りることができるというものである。スマートメディア、コンパクトフラッシュメモリー、PCカードやフロッピーに画像ファイル ( JPEG他数種対応 ) をいれて、一枚あたり50円を払うと、写真サイズ ( L版 89×127mm 3.5X5inch ) にプリントしてくれる機械が設置されているのだ。
ためしにCGを印刷してみた。本来は写真用だが、要は高性能カラープリンタなのだから、なにを印刷しても構わないだろう。竹岡美穂さんのイラストを印刷してみると、見事に綺麗なカードができあがって仕舞った。我が家にも360dpiのカラープリンタとプリンター用光沢紙があるが、段違いの出来上がりであった。
この機械には画像編集能力は一切ない。そのため、画像のアスペクト比がL版からずれていると、画像の一部が切り落とされて仕舞う。また色合いなどの調節もできないが、そのあたりは自分のPCで済ませておけばよいだろう。むしろ余計な機能がない分、操作が簡単でよい。そして価格も一枚50円と手頃だ。写真印刷を考えてプリンターを買うくらいならば、こちらの方がはるかに安いと思う。インクや光沢紙を調達する必要もないし、失敗の恐れもない ( 故障は店員に任せられる ) 。
相変わらずペーパーレスを目指しているかふうだが、このプリントサービスは今後も活用してみたいと感じた。
以前、NHKの人間たちのことを久米宏氏はニュースステーション中でバカだと罵った。僕も、どこか古い頭の固い連中の集まりという意味でバカとは思う。しかし古いなりに老人層など一部の人々にとっては意味のある組織だろうと思うし、頭が固いなりに厳格であれば意味のある組織だろうと思っていた。
しかし、よく見ると頭が固いが厳格という印象も間違っているように思えてきた。プロジェクトXを見ていたのだが、ある時は「南氷海」と書くべきテロップを「南平海」と間違えていた。ある時は「工兵」の発音を人名の「こうへい」と同じ発音としていた ( 別の番組では「陰陽師」をどこかの寺かと思わせる発音もしていた ) 。いずれも視聴者からの指摘で、再放送や後編では改めていたが、果たして番組制作者は一度の確認もしなかったのだろうか? こんないいかげんな態度で、一方では商品名にはこだわっているのだから、笑える。バカと楽しめるものではなく、凡愚だ。
プロジェクトXは面白い。しかし解説がお涙頂戴しか考えていないことも否定できない。27日の「窓際族が世界規格を作った」〜VHS・執念の逆転劇〜にもそれはよく現れていた。
NHKはこの番組のテーマを、リストラから部下を守り抜いた日本ビクターの高野鎮雄事業部長の物語と解説していた。それが多くのサラリーマンの共感を呼び、27日の再放送となったという。しかし、この解説が間違っていることは番組を見ていればすぐにわかることだ。
番組によれば、高野氏のもとに50人の技術者が部下として転属されてきたとき高野氏は「願ってもない宝を得た」と思ったという。その50人はテレビの父といわれる高柳健次郎氏の直接の弟子であり、新計画を始める上で必要な人材たちだった。そこへ日本ビクター上層部からリストラ命令が来たとしても、これは拒否するしかない。守る守らないという概念とは別次元の問題だ。
NHKはリストラを単なるイジメとでも捉えているのではないだろうか? VHSを成功に導いた高野氏の決断は、そんな守る守らないの感情とは無縁なことは、取材から現れているではないか。自分たちの作った番組の解説すら満足にできていないのは、非常に勿体無いと思う。番組自体は、映像と取材してきた事実は面白いのだ、あと一つ。あと一つだけである。
....お涙頂戴も一部の人には重要か....
キーボードの「れ」の反応が鈍くなってきた。注意して力を入れないと、「れ」抜き言葉になるようになってきた。「れ」だけかと思っていたら、次第に被害は広がり「゛」もうまく入力されなくなってきた。「れ」はともかく ( ともかくでもないか ) 「゛」の使用頻度は高い。あまりに誤字が多くなってきたことだし、なんとかしなければ....
なんとかしようにもわたしの愛機はノートPC ( CASSIOPEIA FIVA ) である。できることは限られている。仕方ないので、まずは分解掃除をしてみることにした。
購入から一年強。初めて開けてみて驚いたことは....髪の毛の存在であった。どこから入ったのか、本体内基板まわりに髪の毛が入っているのである。取り外したキーボードの隙間にも入っていたが、PCカードベイなどを除いて髪の毛の入る余地などないと思っていたのに、とにかく自分の髪の毛がやたらと落ちていた。
もう一つ気づいた。キーボードの隙間にはフケや埃がたまっているが、基板内にはフケや埃は入り込んでいない。これはいったい何を意味するのだろうか?
長年使ったノートPCを中古売却するときは、解体して掃除した方がよいかも知れない。でないとどこで遺伝子データをとられるか、どこで呪われるか、分かったものではない。
人工衛星あすか ( D型 ) が3月2日、地球に落下し燃え尽きた。これにより日本の宇宙科学力はまた一歩後退したと言われる。
残るNASDA管理の衛星は、ひまわり5号、おりひめ & ひこぼし、あじさい、あけぼの、ようこう、はるか、である。しかしひまわりの余命は短い。設計寿命はとっくにつき、軌道は乱れ正確な画像撮影もできなくなっている。しかも、あすかの後継機E型と、ひまわりの後継機MTSATはともに打ち上げに失敗し、2005年まで後継機なしという有様だ。
スカイラブとともに宇宙実験を支えたミールももうすぐ落下する。ロシアの宇宙科学力も後退する。
ミールの代わりとなる国際宇宙ステーションはアメリカ合衆国の経済状況悪化に伴い、先日規模縮小が発表され、定員は減る見込みだ。更にNASAはスペースシャトルの後継機といわれるX33の開発を断念した。どうやらアメリカ合衆国も宇宙科学力を後退させているようだ。
天気図すら満足に見られない時代が来ると思うと、寂しく感じる。
しかし一方で、新しければよい、科学的であればよいという時代も終わることは、意味があるのかも知れない。
先日、テレビ朝日のニュースステーションをみていたところ、世界水泳福岡2001の宣伝をやっていた。その中で紹介されていたのが、マスコットポリゴン人間、速水亜矢であった。
最近、ポリゴン人間 ( ポリゴンアイドル? バーチャルアイドル? ) はTV-CFなどでもしばしば見られるようになった。アニメや漫画が子供だけのものでなくなったように、ポリゴン人間もゲームだけのものではなくなってきたようだ。
しかし、見る限り女性型ばかりである。海外ではリアルな男性型ポリゴン人間がニュース番組を担当するなどあるようだが、日本では女性型ばかりで俗に言うオタク文化が外に出てきただけのように感じる。オタクうんぬんは偏見かも知れないが、そんな理由でこういう風潮を僕は好きにはなれなかった。一方、女性からはポリゴン人間はどう見えるのだろうか?
案の定、あまり好意ある意見は聞かれなかった。しかし、例外が一つあった。ワコールのつばさである。「下着の宣伝に使われているポリゴン人間がなぜ? 」と思ったが、どうやら女性の視点では「女性の裸を見ないで済む」という点が受けているようだ。
きちんと使い道を考えるというのは大切なことである。ワコールのTV-CFを企画した人の判断は素晴らしい。
昨日、NHKのプロジェクトX 「運命の船『宗谷』発進」 〜南極観測・日本人が結集した880日〜を見た。
感動した。見ていて思わず涙が出た。
小学生の頃、白瀬矗中尉の南極探検のことを聞いて以来、僕の尊敬する人の一人は白瀬矗中尉である。そんな理由があって、南極ときくとつい気になって仕舞う。今回もそれだけの理由で見たが、そこには南極だけではなく、戦後の日本の素晴らしさが描かれていた。
戦後の暗い日本の中で夢を見たい、と子供たちが募金をする。今の自分を捨てても明日の日本を、と多くの企業が人々が集う。今回のプロジェクトXは、日本の科学技術の結集を描いた最高のサイエンス・ノンフィクションだったと思う。今までのプロジェクトXが、無名の技術者をお涙頂戴的に描いていたのと比べて、またバブル時代をすぎた今ではその産物の無益さが見えてくるものもあるのに比べて、今回は日本全体の視野に立った、科学の素晴らしさを描いた作品に思えた ( なぜ人々が結集したのか、その理由を表現しきれていないところからして、制作者はお涙頂戴のつもりだったのかも知れないが.... ) 。
戦後、教員たちの多くに共通していた思いは「子供を育てなければ日本はこのまま消える」だったという。戦後の人々の中には「自分が駄目でも次の世代に幸せを」という思いを持っていた人も多いと聞く。しかしそうして育てられた世代が大人になった現在は、その戦後とは大きく異なる。理科離れが進んだだけではない、どこか静穏とは異なる停滞した雰囲気がある。
今回のプロジェクトXを見ていて思う。もう一度、皆がこんなに沸き立つ挑戦はでてくるのか? こんな現在でも、目標さえ出てくれば、沸き立つ者はいるのか? 皆が自分なりの価値観をもつ、多様化した時代であっても、挑戦することの意味を理解する者がいればそれは可能と思う。普段、「日本一丸となって」など考えない僕までも、昨日は大きな挑戦をしてみたいと感じた。
かふうは小学生の頃、探検ごっこが好きだった。近所の幼稚園児から中学生くらいまで、メンバーは毎日入れ替わりながらも5〜10人くらいで、近所の空家 ( 建築中のもの、廃屋など ) をあらしまわった。
探検ごっこでは、みんな思い思いの荷物をもってきた。懐中電灯、ナイフ、ロープ、お菓子など常識的なものから始まり、トランシーバーなどのちょっと高価な秘密道具。さらに縄跳び、ボール、超合金ロボット、水鉄砲、忍法虎の巻などわけのわからないものまであり、かふうのお気に入りは照度計だった。
探検中はこれらの道具が突然役に立つ。その便利さに慣れてからというもの、かふうは一見無駄なものでも持ち歩く癖がつき、高校時代は裁縫セットに懐中電灯まで毎日持ち歩いていた。電車通学になってからはあまり大きなものは持ち歩けず、いくつかの道具はあきらめたが、今でも欠かさず持ち歩いているものは多い。
この中で意外と便利なお薦めのものは、ビニール袋、輪ゴム、クリップ、絆創膏である。ビニール袋は小さくたためば気にならない。荷物をいれるのに便利なだけでなく、宴会の席で気分が悪くなったときにもつかえる。輪ゴム、クリップ、絆創膏も小さくかつ便利だ。絆創膏以外は毎日簡単に補給がきく ( 結構捨てているものだ ) ので、気兼ねなく使えるのもよい。
一つ、これらのものを持ち歩いてみてはどうだろう?
これに比べて、毎日持ち歩いているが重さの割に役立たないと感じるものは、ノートPC、デジタルカメラ。もってて助かったということがないからか....
またも、使ってはいけないと言われる言葉の話。森首相が南アフリカで「支那事変」という言葉を使ったことに対して江頴禅さんが抗議したそうだ。
江さんは「支那」という言葉に耐えがたい抵抗を感じるということで、この言葉を根絶しようと運動しているらしい。気象庁に「東支那海」という表現を改めるよう訴えたり、自分の経営する中華料理店で「
しかしここでまた、言葉と、発言意図との違いがあらわれる。
僕などは支那に好悪いずれの感情ももっていないつもりだし、支那竹に至っては「では何と呼べばいいのか? 」と辞書をひいて仕舞った ( 答えは
また東支那海がいけないならば、支那織物、即ちチノ織物、チノパンもいけない。また支那の語源は何か? 一説には「秦」、一説には「China => Shina」といわれる。言葉だけで否定をしていくと、ついにはチャイナという言葉すら使えなくなって仕舞う。発言意図で区別しなくては、言葉がなくなって仕舞う上に、悪意を隠した発言が横行することになりかねない。
ところでもとの江さんの意見なのだが、朝日新聞の記事を引用してみよう。
江さんは (略) 戦時中、日本人が軽べつを込めて「シナ」と呼ぶのをさんざん聞かされた。 (略) 「シナと呼ぶ人が後を絶たないのは、日本人が心のどこかで中国に劣等感を持っているからでは」と江さん。とある。どんな人間も劣等感を抱きつつ軽蔑を込めることはできまい。この主張には矛盾がある。いったい「支那」という言葉は、尊敬の言葉なのか侮辱の言葉なのか、当の運動している本人ですら理解しきれていない。しかしそれは当然で、発言者の意図が附加されて始めて言葉 ( 言葉の指す対象 ) に意味が込められるのであり、本質的に言葉 ( 言葉の指す対象 ) 自体に固定した意味はないのである。
Yahoo! オークションでは、落札価格はどのように決まるのか? そんな価格調査につきあってみた。
その結果は、ほぼ同じ商品が、ほぼ同じ時間に落札されてたとしても、その落札価格はバラバラであり、落札価格を決める因子は見つからないというものだった。これは慶應義塾大学の國領二郎氏が1999年に発表した結果と違わない。
かつて、誰もが自由に参加できるインターネットオークションでは、その商品の適正な価格が評価され、一物一価の法則が完全に成り立つと言われていた。しかし現実にはそうはならなかった。落札価格の決定には入札者、落札者の価値観の影響が大きく、周囲の環境から落札価格を予想することはできないと言わざるを得ない。
予想できないというこの結論は、それだけオークションに関わる人の価値観は多様であり、一人一人が独自に価値を見出していることを示している。インターネットを利用することによって、人の個性が、社会の中により強く引き出されるということである。人にこれだけの個性があることは喜ばしいことである。
またインターネットオークション、或いはインターネットには、これだけ人の個性を引き出す能力があるとも言えないだろうか? 今後、インターネットを利用した取引や付き合いが更に盛んになることは間違いないが、その時、人の個性を無視できないとなると、人の個性を認めた生かした社会を作る動きがでてくるかも知れない。
人の心を完璧に読むことができる、覚という妖怪がいる。覚がもっとも恐れるもの、それは偶然だという。人の殺意を感じとれる覚も、偶然人が落とした包丁を避けることは難しいのだそうだ。
人は自分の行動を誰かに見抜かれることも、管理されることも嫌う。そんな恐怖感が覚という妖怪を作り出したのだろう。しかし、インターネットは一人一人の個性を引き出してくれる。
インターネットをうまく利用すれば、インターネット上の社会では覚の恐怖から解放されることも、もしかしたら可能かも知れない。
少しはネット社会に期待をしてみたくなる調査結果だった。
ふとブラウザの設定を変えてみたくなった。そこでJAVAやらcookieやら、徹底的にOffにしてみた。
その結果、見にくくなったページは極僅かだった。大抵のページはFlashなどをOffにしても問題なく理解できるのである ( cookieをOffにしていると見られないページはいくつかあったが、それについては手軽な解決策を考えているところだ ) 。
それどころか、見やすくなったページのほうが多かった。
例えばMIDI。ページを開くとMIDIが流れるようになっているところがあるが、かふうにとってはMIDIソフトの起動時間が鬱陶しかったり、他にBGMを聞いていたりで、あまりうれしいことはない。他にも余計なアプリケーションが起動しなくなるだけで、随分と快適になった。
例えば広告。無料ウェブページの中には、別窓を開いて広告を表示させるところがある。しかしそれも表示されなくなったため快適になった。広告は、「無料でページ領域を得ているのはページ作者なのに、なぜ視聴者が広告を見るという負担を負わなければならないのか? 」と不満をもっていたが、これでその不満も大幅に解決した。
しかし、サービスをなくし簡略化することでかえって快適になるとは....
僕の通っていた小学校にはH組があった。まだ小学校低学年だった頃、H組の子たちを「エッチ、エッチ! 」と笑うのが流行ったことがある。これに対してある教師は、こんなことを言った。
「"H"というのは、"エイチ"と読むのです。"エッチ"とは違うんです」
彼女はいったい何をやりたかったのか? 僕らにとっては"エッチ"か"エイチ"かはどうでもいいのである。変態の頭文字としての"H" ( これが正しいエッチの由来かどうかは知らない ) だけが重要だったのだ。だからそう言われた後、僕らはH組の子を「エイチ、エイチ! 」と笑い、助平な行為を「エイチ! 」と呼んだ。
2001/01/16の朝日新聞「私の見方」に田中洋一氏の意見が紹介されていた。彼の意見は、最近しばしば使われる「差別化」という言葉は、被差別者を心理的に追いつめかねない言葉だから使うべきではない。例えば「差異化」という言葉はどうかというものだった。
しかし、問題は「差別」「差異」という言葉使いではないだろう。問題は被差別者を不当に低く見做そうとする行為であり、例えば「部落出身者を差異する」という表現が使われれば、結局元通りになって仕舞う。さまざまな言葉を使用禁止にすれば、それで差別がなくなるというものではないのだ。
偶然『経済ってそういうことだったのか会議』の中で「差異化」という新たな表現を見つけて、彼は鬼の首でもとったかのように喜んでいる。しかしこの本の中で竹中平蔵氏は単にdifferenceを直訳して「差異化」を使ったのだ。竹中氏の心理の中には差別もなにもないから、問題がないのであって、差別の意思をもって「差異化」と言ったならば何にもならない。
ウィルスが怖いという話をしていた直後のこと、アウトルックを使用していた知り合いのPCにウィルスが侵入した。幸い、バックアップのおかげで、データに被害は殆どなかったが、ウィルスのおかげで余計な手間を取られたことは間違いない。ウィルスとは恐ろしく、迷惑なものだ。
さて、ウィルスの後始末に終われる中、一つの興味深い行動が見られた。
この被害にあった知り合いはあまりPCに詳しくないのだが、彼にウィルスの感染源となった人を教えたところ、彼はとんでもないメールを ( PCは使えないので携帯電話で ) 書き始めたのだ。
「わたしのPCは○○さんのせいでウィルスに感染しました。○○さんが犯人です。○○さんと連絡をとることは危険なのでやめてください」
これを彼は、彼と○○さんの知り合い全てに送って仕舞ったのだ。僕があわてて「○○さんも被害者なのだ、それよりウィルスの名前とワクチンプログラムのURLを連絡してやってくれ」と言っても、彼はウィルスの仕組みを理解できないようだった。
災害などの混乱時に、根も葉もない噂が流れることがある。悪意はないのに、無知が原因となってデマが作られるという例を、目の前で見て仕舞った。