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ラプラスの魔とシュレーディンガーの猫

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ラプラスの魔とシュレーディンガーの猫は、古典的物理学と近代物理学の違いをよく表す象徴と思います。ここでは読み物として、この二つの言葉を比較紹介します。

ラプラスの魔

古典物理学ではすべての物体の位置や運動は完全に一つの値であらわされると考えられていました。例えば、直径0.1mのボールがここにあったとします。このとき、充分な精度の測定装置を使えば、その位置を完全に把握できると考えられていたのです。ボールの中心は座標x=6.83248593....mのy=3.28401984....mのz=1.27446222....mにある。そう表現できると考えられていました。 ( 勿論、今は小数点以下8桁しか書きませんでしたが、無限に細かく続く数字を省略して書いたのです ) 運動も同様に、速度 ( または運動量 ) を正確に測定できると考えられていました。

またある時刻の物体の位置と速度が分かれば、次の瞬間の物体の位置と速度を完全に予測することも可能だと考えられていました。物体が、ある時刻 1 ( 0の状態とする ) に位置 2 にあり、速度 3 で運動していたとします。この物体に力 4 ( 重力など ) が働いているとすれば、一瞬後 ( 5 後、例えば0.001秒後、1の状態とする ) の物体の様子は、位置 6 、速度 7 と分かります。この1の状態の位置と速度を計算できたのですから、これをもとに、2の状態、3の状態を計算することも可能なはずです。これを繰り返せば、ある時刻の物体の様子を把握していれば、遥か未来の様子も計算できるということになります。

もちろん、この計算法では誤差がでてきます。

まず第一の誤差は、周囲の環境をあまり考慮していないことによります。例えば、野球場のボールの運動を計算する場合、投手の手を離れたボールを一秒間追跡するとしてもたいへんな作業になります。手を離れる速度から始まり、球場に吹く風の動き、湿度や温度も調べておかねばなりません。

また第二の誤差は、 5 という時間の間に状況が変化して仕舞うことによる誤差です。1の状態を計算するために、0の状態の位置と速度を用いましたが、実際には0.5の状態が考えられます。0.5の状態を0の状態から計算し、その結果を用いて1の状態を計算したほうが正確な結果を得られるでしょう。欲をいえば、0.5といわず、0.1、0.01の状態も計算しておきたくなります。

これらの誤差を完全になくすことは、現実には無理です。しかし、仮に誤差のない計算をできると想像してみたくはなりませんか? ラプラスの魔とは、そういった誤差のない計算のできる超生命体 ( 悪魔 ) の例えなのです。

ラプラスの魔は、天才的な計算力と情報収集力をもっています。この悪魔はある時刻の宇宙中の全ての情報を把握しています。また限りなく細かい時間刻みで、それらの情報から次の瞬間の状態を計算することが可能です。

少し想像すれば、ラプラスの魔がどれほど驚異的な存在かわかるでしょう。なにしろ、球場にいる観客のくしゃみがボールに与える影響すら瞬時に計算し、チリ沖で投げられた小石が東京湾に作る波まで計算するのです。いえ、宇宙規模で計算するのです。さらに、それが実際に起きるよりも速く計算できることも驚異的です。1秒後の宇宙を計算するのに、1秒かからないのです。いえ、0.1秒、0.01秒後の宇宙を計算するのにすら、同じだけの時間を必要としないのです。

このラプラスの魔は、デカルトのいう完全性をもった神にも似ています。ラプラスの魔とは、全ての現象は完全に予測できるといわれた古典的物理学を象徴する存在です。

( おまけ )

デカルトは神は宇宙に存在するといいました。しかし、神をラプラスの魔のように考えると、神は宇宙にはいないと思われます。宇宙の外にいると考えなければ、神の完全性はなりたちません。

なぜなら、神が宇宙に存在すると、神は神自身を計算することになります。神に自由があるとすれば、神は神自身を計算しつくせません。従って、宇宙の中の『神』という項目について、不完全さが生じて仕舞います。これでは神の完全性が成り立ちません。

神が宇宙に対して完全であるためには、宇宙の外にいなければならないのです。また同様にラプラスの魔も宇宙の外にいると考えられます。

シュレーディンガーの猫

古典物理学に対する近代物理学では、量子力学という考え方があらわれます。

量子力学では、全ての現象は完全には予測できません。すべての現象は確率でしか表現されないと解釈されます。

確率で表現されるとはこういうことです。ある電子が場所 8 に存在する確率は約0.8、その周囲の場所 9 と場所 a に存在する確率は約0.1ずつ、そして場所 9 と場所 a より遠い ( つまり場所 b や場所 c など ) ところに存在する確率は約0 ( 完全に0ではありません ) と表現されるのです。古典物理学と異なり、ある電子が場所 8 にいるとはいいきれず、場所 8 を中心に「このあたりに存在する可能性が高い」という捉え方しかできないのです。 ( 確実に場所 8 にいると言いきれる場合もあります )

それでは僕らが自然を見るとき、なぜこのような確率を意識しなくてよいのでしょうか?

一つの理由は、たいていの場合、この発見できる確率の分布が限りなく一点に集中しているからです。原子の中の電子を測定すると、その発見できる確率は、原子の半径程度の範囲におさまります。つまり原子の大きさ、1Å ( d m ) 程度を考えなければ、この誤差は気にならないのです。従って、日常生活では問題になりません。

二つの理由は、たいていの場合、多数の原子の群れを見ているからです。日常生活で取り扱う物質には無数の原子が含まれています。例えば、常温常圧の空気22.4リットルには分子 e 個が含まれています。これらの全ての電子が、いっせいに古典的に想像される位置からずれる確率など、日常生活では0と考えて差し支えありません。

しかし、日常では無視できても、原子の世界では無視できません。この存在が確率で表され古典的に考えたならばあり得ない場所にも存在し得るというところに、物理学者は注目しなければならないのです。現代の物理学者は、現象が確率でしか予測できないこと、またその現象を測定して確実に現象を把握すると同時に、別の、確率でしか予測できない現象へと変わってしまうことを共通の常識として認めています。

とはいえ、一般の人々には信じられないでしょう。「観測するまで確率でしか予測できない状態などあり得ない。正確に計算すれば予測できるはずだ」「そんな確率という考えは原子の世界にしか関係なく、一般的な世界では無意味だ」そう主張するする人もいます。

そこで確率でしか予測できない現象が、日常にも影響する例として考え出されたのが、シュレーディンガーの猫です。これから問題となるのは、このシュレーディンガーの猫が生きているのか死んでいるのかを予測できるかということです。

まずシュレーディンガーの猫と、猫を入れる部屋、毒ガス噴霧装置、ガイガーカウンタ ( 放射線検出器 ) 、放射性原子を用意します。猫を入れる部屋は中身が見えず、扉をあけなければ決して中のシュレーディンガーの猫の様子は分からないものとします。続いて、シュレーディンガーの猫と毒ガス噴霧装置を部屋に入れ、毒ガス噴霧装置の作動スイッチとガイガーカウンタをつなぎます。ガイガーカウンタのセンサーは放射性原子に向けておきます。

放射性原子が放射線を出すかどうかは、先ほど説明した電子がどこにいるのかと同じく、確率によって支配されます。そうすると、如何に過去に正確な測定をしていても、ある時刻に放射線が発せられるかどうかは予測できないことになります。確率に支配された放射線が引き金となって、ガイガーカウンタが作動するとなると、ガイガーカウンタの動作も予測できなくなります。そしてついには毒ガス噴霧装置の動作も、毒ガスによってシュレーディンガーの猫が死ぬかどうかも予測できなくなるのです。

装置のスイッチをいれた後、もはやシュレーディンガーの猫の生死は確率でしか分からなくなります。部屋をあけて観測しない限り、猫の生死という日常的な大きな現象も予測不可能になるのです。

このように原子程度のものにしか影響しないと考えられていた、「確率による支配」が日常的な現象にも影響することを示す例えが、シュレーディンガーの猫なのです。

( おまけ )

これでは先ほど例として出した二つの質問のうち、後者にしか答えていません。もちろん、もっと長い文を用いれば、なぜ原子が放射線を出すかどうかが確率によるのか、詳しく説明できます。しかし、完全には説明することはまだできません。残念ながら、現在、物理学で説明できることは、確率によると説明するとつじつまがあうということだけなのです。

この説明だとつじつまがあう。こう言われて素直に納得できない人も多いでしょう。しかし、現代の科学では、さまざまな現象がなぜ起きるのか、それを完全に理由付けすることはできません。

完全に理由付けできないことは、科学が一つの宗教にすぎないということでもあります。デカルト以来、科学は「自然界は数学という法則で説明される」という教義に基づいて発達してきました。この教義の下で実験と観測が繰り返され、「今のところ、実験、観測とつじつまの合う法則」を科学的に正しい法則として認めてきたのです。しかし、自然界が法則をもつという保証はありません。法則をもつという教義を、信仰しているのが科学者なのです。

また「なぜ」そんな現象が起きるのか、その根本もわかってはいません。これも大きな課題なのです。


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